昭和の大横綱・北の富士さんが2024年11月に亡くなったという報道を受け、多くの相撲ファンから惜しむ声があがっています。解説者としても親しまれていただけに、突然の訃報に驚いた方も多いのではないでしょうか。
そんな北の富士さんについて「奥さん(妻)はどんな人だったの?」「子供や孫はいるの?」「家族構成は?」と気になる方も多いようです。
今回は北の富士勝昭さんの妻(嫁)や子供、孫、両親、ご兄弟といったご家族の情報について、できるだけわかりやすくご紹介していきます。
📌なお、北の富士さんの解説引退の経緯や体調不良の様子については、以下の記事で詳しくご紹介しています。
→ 北の富士が解説を辞めた理由とは?体調不良の経過や舞の海との関係も
北の富士勝昭の妻(嫁)は誰?結婚歴をわかりやすく紹介
大相撲界のレジェンドとして知られる北の富士勝昭さん。
現役時代の強さはもちろん、解説者としても人気を博し、幅広い世代に親しまれてきました。
そんな北の富士さんですが、プライベートでは過去に2度の結婚歴があり、どんな女性と結婚していたのか気になる方も多いのではないでしょうか。
ここでは、最初の妻・富子さんと、のちに再婚した松木真理さんとの結婚エピソード、さらには結婚に至らなかった裏話まで、まとめてご紹介します。
最初の妻は富子さん|1976年に結婚
北の富士勝昭さんが最初に結婚したお相手は、富子さんという女性です。
おふたりが結婚されたのは1976年12月で、北の富士さんがすでに現役を引退し、親方として活動していた頃のことでした。
実際に当時の写真も残っており、富子さんが部屋の若手力士たちと笑顔で写っている様子が話題になりました▼
引用:日刊スポーツ
夫婦仲は良かったとされますが、その後離婚されたようで、富子さんとの結婚生活は長くは続かなかったとされています。
再婚相手はホステスの松木真理さん|1985年に再婚
そして北の富士さんは1985年に再婚を発表。お相手は、当時銀座6丁目のクラブ「司」でホステスとして働いていた松木真理さんです。
おふたりは1985年9月にハワイで挙式、同年11月5日に結婚を発表し、1986年2月21日に披露宴を行いました。
結婚当時の年齢:北の富士さん43歳、松木真理さん34歳です。
出会いのきっかけは明かされていませんが、当時“銀座のマドンナ”とも言われていたそうです。
2人の間にお子さんがいたかどうかは公表されていませんが、「年下の再婚相手」ということで、当時メディアにも大きく取り上げられました。
北の富士の“結婚未遂”エピソードも話題に
北の富士勝昭さんには、実際に結婚には至らなかったものの、かつて“婚約状態”や“交際関係”にあったとされる女性たちとのエピソードがいくつか存在しています。どれも当時の相撲界や芸能界に少なからず影響を与えた話として語り継がれており、ファンの間では“幻の結婚相手”として知られているようです。
19歳のバレリーナ羽永共子さんと婚約発表|1974年
引用:日刊スポーツ
1974年、32歳だった北の富士さんは19歳のバレリーナ・羽永共子さんとの結婚を決意。
井筒部屋の上棟式にて婚約発表をされました。
ただ、婚約から2年後にお二人は婚約を破棄されています。理由については明らかにされていません。
羽永共子さんは北の富士さんと婚約破棄した翌年の1977年、劇団四季のオーディションに合格。
数々のミュージカル作品に出演されましたが、中でも『コーラスライン』の初演(主演・キャシー)といった大きな役を演じられるなど、華々しいキャリアを積んでいかれました。
後進の指導・振付等にも力を入れておられ、エンターテイメント業界で大活躍されることとなります。
料亭の次女に想いを寄せた過去も|10代後半~20代前半
もうひとつ有名なのが、ひいきにしていた高知の料亭の次女の方に、北の富士さんが結婚を申し出たという話です。
この女性と北の富士さんは同じ年ということもあり、とても話があっていたんだとか。
その方がまだ高校生の終わり頃、「出世したらお嬢さんをお嫁にくれませんか」と北の富士さんから女将に申し出があったようです。
その時はまだ年齢も若いので、娘さんにその想い伝えず女将さんのところで話が止まっていました。
何年後かに北の富士さんが本当に出世してから、再び「お嬢さんはどうしてますか」と女将に尋ねましたが、
既に娘さんは他の方と婚約をされており、北の富士さんの想いが叶う事はありませんでした。
当時、ほれぼれするような男っぷりが評判だった北の富士さんですので、この求婚エピソードを羨む方も多かったのではないでしょうか。
北の富士の子供・孫について|娘がおり、孫は女の子ばかり
北の富士勝昭さんには娘さんがおり、さらに孫娘もいることが、本人のコラムなどから明らかになっています。
2023年1月の中日スポーツのコラムでは、「孫娘2人が相撲見物に来てくれた」との記述があり、少なくとも2人の女の子の孫がいることが分かります。
「孫娘2人が相撲見物に来て、夕飯を共にした」「私に似ず口が達者で、うるさいことうるさいこと。すっかり疲れてしまいました」
引用:中日スポーツコラム(2023年1月12日)
また、別のコラムでは、「私の孫は女の子ばかり」「ゴルフ選手になってくれたら」と、孫に対する期待も語っていました。
このことから、娘さんが少なくとも1人おり、その子ども(=孫)たちは全員女の子であることがうかがえます。
なお、娘さんの人数や名前・年齢などの詳細な情報は公表されていませんが、プライベートを大事にしている北の富士さんらしいとも言えるでしょう。
北の富士の両親・兄弟姉妹・家族構成について
北の富士勝昭さんは、父・政信(まさのぶ)さん、母・みよしさんのもとに生まれた、7人兄弟姉妹の次男です。出身は北海道の美幌町で、のちに留萌市へと転居しました。
少年時代には、父・政信さんが経営していた料理店に大相撲の巡業で訪れた第41代横綱・千代の山と出会ったことが、北の富士さんの運命を大きく動かすきっかけとなりました。
また、NHKの公式SNSでは、父・政信さん、母・みよしさん、そして千代の山と並んだ貴重な家族写真が公開されたこともあり、当時のつながりの深さがうかがえます。
北の富士の少年時代|野球少年から相撲界へ
北の富士勝昭さんは、北海道・留萌市で少年時代を過ごし、軟式野球のピッチャーとして活躍するスポーツ少年でした。地元の強豪チーム「萌友会」に所属し、主力投手としてチームを牽引。中学でも4番・エースとして活躍していた実力の持ち主です。
そんな北の富士さんの運命が動いたのは、中学時代に父の経営する料理店に巡業中の大相撲一行が訪れたときのこと。第41代横綱・千代の山から「相撲をやってみないか」と声をかけられたのがきっかけでした。
当時、北の富士さんは野球の名門高校やレスリング強豪校からもスカウトされていたものの、中学で肘を故障しており、思いきって相撲の道へ進むことを決意。多くの誘いを断って、中学卒業と同時に出羽海部屋へ入門しました。
一方、家庭環境は決して恵まれていたとは言えず、父の事業失敗によって3度の夜逃げを経験。経済的に厳しい状況の中で、「口減らし」の意味もあって、千代の山の後援者に預けられたという一面もありました。
靴を買うお金もなく、学生服に下駄を履いて上野駅に降り立ったというエピソードも残されています。
そんな父・政信さんについて、晩年の北の富士さんはこう語っています。
「酒好きでね…本当に酒好きだった!けど、長生きしたよ」
引用:サンスポ(2021年6月20日)
少年時代の北の富士さんには、野球で鍛えた運動神経と、厳しい家庭環境を乗り越える強さが備わっていたことがうかがえます。
まとめ|北の富士さんの家族から見える人柄とは?
北の富士勝昭さんの人生には、さまざまな家族の姿がありました。
波乱もあった少年期、温かくも個性的な父母、そして人生のパートナーや娘たち、孫たちとの交流……。
時に寂しさを滲ませながらも、自立した日常をユーモアを交えて語る姿は、どこか人間味にあふれ、飾らない強さを感じさせます。
まさに「豪快さと繊細さを併せ持つ横綱」──
その背景には、家族とのかけがえのない絆があったことは間違いありませんね。
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